先輩の言葉

 周囲が真っ暗になった散歩からの帰り道、我が家が目と鼻の先というところで、ルーシーが急に唸りだした。ふと視線をやると、二軒先のお宅の奥さんが、車にカバーをかけておられたのだ。
 「ルーシー、ウ〜じゃないでしょ。」と(あ)が注意して、奥さんが「ルーシー、もう忘れたん?」と声をかけたら、ルーシーは急に態度を変え、慌てて足下ににじり寄ってゴマをすろうとした。
 実は、このお宅にはワンちゃんがいた。12歳のパピヨンの男の子だった。奥さんは収集場所にゴミを出す時も、肩にワンちゃんを乗せて、重そうにゴミ袋を運んでおられた。こちらは「一時も離れていたくない」飼い主と犬の姿を見るたびに、自然に口元がほころんでしまった。昨年、我が家にルーシーがやって来ると、奥さんは「同じ白黒だねぇ」と子犬のルーシーを愛おしそうに撫でて下さった。ルーシーはウレション癖があったので、奥さんの洋服などを汚してしまわないか、こちらがヒヤヒヤしたものだった。
 今年の夏、早朝に散歩に出たところ、ルーシーが足を止めた。この家の前には小型のデリバリートラックが停まっていて、男の人が外に立ち待っていた。ふいに玄関のドアが開いて、ご主人の後ろから奥さんが目を泣き腫らし、両手で抱えたタオルの上に白と黒の何かが見えた。(あ)は最初全く理解ができなかった。足下ではルーシーが後ろ足で立ち上がり、鼻を鳴らしながら、いつものように甘えようとしていた。ところが、奥さんはルーシーの姿を見た瞬間、くるりと後ろを向いて嗚咽を始めた。それで何が起こったのかが分かった。
 以来しばらくは、この家の前を通るのを控えていた。そのうち奥さんも仕事を始められた様子で、自然と出会うことが少なくなった。時折出勤されるご主人の姿を見かけたが、こちらの姿を認めるや辛そうに顔を歪められる。やはり思い出してしまうのだろう。出勤時間以外なら家の前を通っても、お二人の姿を見ることがなくなったので、こちらも散歩ルートに組み入れ直した。
 この機会にと(あ)は思い切って声をかけた。「あの時は間が悪く、Aさんにとって一番辛い瞬間に出会ってしまったんですよね。一瞬理解できなくて対応が遅れて、ますます辛い思いをさせてしまいました。すいませんでした。」
 奥さんは薄く笑いながら「そうね。あの時は一番辛かったわね。」と仰った。「ずっと一緒にいるものだと心のどこかで思っていたんだろうね。もっと何かしてやれたんじゃないかと今でも思うのよ。」
 このワンちゃんはガンの手術を受けて、それから二年半頑張ったのだという。ワンちゃんがいなくなっても、自分ではペットロスはないと思っていた。それでも犬がいた時は、家の中で常にふれ合っていたから、それがなくなって寂しい。ご主人も最近ペットショップを覗いて「あそこにパピヨンがいたよ」と、言うこともあるのだという。だからと言って、自分は新しく犬を迎える気にはなれないから、やっぱりペットロスなのかな?
 「それにね、もう一匹ワンちゃんを飼う自信もないの。」亡くなったワンちゃんに、自分ではできる限りの愛情を注いだから、新しいワンちゃんを同じように扱えるかどうか分からないし、二匹を比べるようなことはしたくないのだと仰る。
 「ゴンタの時期は短くて、おとなしくなって、その上最期が近くなると、本当に寂しくなるものよ。」出会った瞬間から別れの瞬間がいずれはやって来る。そのことは頭では分かっていても、一日一日を大切にしなかったと奥さんは涙を浮かべておられた。
 奥さんの言葉ひとつひとつが心にしみた。一日一日を大切に。一緒にいる今を大切に。