逃走の夜

 モー姉は(あ)の子供ほどの年齢ではあるが、非常に頼りになる相談相手である。犬の訓練士養成学校に通っていて、ビーグルのモーちゃんを育てながら勉強している。モーちゃんとルーシーは幼なじみで、休みになると近所の公園で一緒に遊ぶ間柄。モー姉は、モーちゃん同様ルーシーを可愛がってくれているので「大好きな人その1」でもある。
 昨日の夕方、散歩の帰り道で(あ)は、かねてから疑問に思っていたことを訊いてみた。「ルーシーは自分からお腹を見せるクセに、その時、歯を剥いて唸るのよ。これはどういうことなのかしら?」
 モー姉の回答は端的だった。「バカにされているんだと思います。」
 ルーシーは自分がお腹を見せさえすれば、(あ)が攻撃しないことを知っている。だからフェイクでお腹を見せているだけで、本心では(あ)をリーダーとして認めていないのだ、という。
 まぁ、リーダーとして認められているとは思っていなかったけど、バカにされているとは。「今でも仰向け抱っこで足を拭くと、歯を剥いて唸るんだけど。噛むことはないけれど、歯を剥いて唸るクセは全く治らないの。これは放っておいて、それ以上に深刻な問題になるのかしら?」
 「なりますね。絶対止めさせた方が良いです。」「犬が肝心な時に飼い主の指示に従えなければ、犬を危険にさらすことになります」と、モー姉。
 今まで複数のシツケの先生にアドバイスを仰いで、自分でも工夫して止めさせる努力はしてきた。今でも毎日最低2回は、仰向け抱っこで足を拭く。しかし、どのやり方も効果はなかった。一回は(あ)も覚悟の上でルーシーと対決し、右手の薬指を噛まれて神経が切れたのか、3ヶ月程度痺れたままだった。ルーシーは、その際こっぴどく怒られたこともあり、今では噛むことも威嚇することもしなくなった。
 急遽、夜の公園でモー姉の授業が始まった。ルーシーを仰向け抱っこする。ルーシーが歯を見せ唸ったら、マズルを叩く。叩いたら、頭に手を置いて落ち着かせる。回数は1時間3回までと制限をつけた上で、時折、後頭部にショックを与え、頭に手を置いて落ち着かせる。歯を見せなくなったら、抱き直す。そして同じ事の繰り返し−−−。
 1時間ほどでルーシーはモー姉には敵わないと悟ったのか、歯を見せる回数は減っていった。しかし(あ)に対しては、何回やっても歯を見せ唸り続ける。その姿を見たモー姉は「ルーシーは強情で難しいなぁ」とタメイキ。モー姉がもう一度トライして、ルーシーが服従姿勢を自分から見せるようになった。
 その後、少しだけモー姉とルーシーが遊んでいたのだが、モー姉の指示で(あ)が呼び戻しをしようとしたら、ルーシーは急に逃げ出した。また、嫌なことをされると思ったようだ。
 公園の階段を走って逃げるルーシーは、後ろを振り返ろうともしなかった。予想だにしなかった展開に(あ)は唖然とするばかり。モー姉が追いかけてくれたが、直ぐに見失ったという。ルーシーには「大好きな人その1」に嫌なことをされたのが、大変なショックだったらしい。
 公園を出て姿を探しても見つからず、(あ)はルーシーの名前を呼びながら家の方向へ。家から程ない学校に近づいた時、曲がり角の向こうから「こっちに来て下さい」と若い男性の声。5,6人の高校生らしき若者にルーシーは身柄を確保されていた。ケガもなく無事。ほっとして涙が出てきた。
 モー姉にルーシーが無事であることを伝え感謝と謝罪を伝えた後で、(あ)は一人夜の道を歩きながら、モー姉のアドバイスについて考えた。「大変でしょうが続けてください。それがルーシーのためなんですから」
 確かにね〜。しかし、ルーシーは今まで一度だって脱走したことはなかった。それでも、やらないといけないんだろうか?
 いや正直に言おう。「やらないといけないんだろうか」よりも「やり続けることができるんだろうか」だ。自分の心が折れそうで、帰り道に涙がこぼれた。