ヒロシマに思う

 広島・原爆の日。今年は東日本で地震原発事故が発生し、これらの被害がいまだ続いていることから、特別な思いで式典のTV放映を見ていた。多くの一般市民が一瞬にして生命を失った訳で、これらの人達と東日本の人々が重なって見えた。
 原爆や核兵器は、非人間的な殺傷兵器であることは間違いない。非戦闘要員である一般市民が犠牲になったからだけではない。生まれる日を待っていた子供たちを殺し、さらには後の世代まで被爆に苦しませ、自然を破壊・汚染した。百歩譲って原発事故が天災によるものだとしても、原爆や核兵器の使用は、到底許されるものではない。少なくとも(あ)個人は、そう考えている。66年を経た現在、未だ核兵器が存在し使用されていることを考えると、一体我々は何を学んできたのだろうと慄然とする。
 約10年前になろうか、職場の日系アメリカ人と話して非常に驚いたことがあった。「原爆投下は必要だったと思うか?」と尋ねたところ、彼女は「戦争を終わらせるために必要だった」と言う。原爆を投下する前に、アメリカ軍は日本の暗号(真珠湾作戦を含め)をほぼすべて解読していたし、日本の敗戦が時間の問題であることを確信していた。原爆など使わなくても、日本は敗戦を受け入れざるを得ないとわかっていながら、原爆を投下したのである。これは後に公開された公文書により証明された事実だ。そのことを伝えた上で「それでも必要だったと思うか?」と尋ねたところ、彼女は「必要だった」と言う。「日本人の犠牲を減らすためにも原爆投下は必要だった」と言うのである。「犠牲を減らすために大量殺戮兵器を使ったワケ?」と論理的な矛盾を指摘すると、言葉を濁した。
 「貴女は広島や長崎へ行ったことがあるか?」と尋ねると「ない」と言う。「日本にいる間に是非訪ねて見て欲しい。そして、そこでどんなことがあったのかを自分の目で確かめて欲しい。その上で、私は同じ質問を貴女に尋ねる。その時の貴女の答えは、おそらく変わっていると思うよ。」残念ながら、彼女は(あ)の勧めに従うことはなかった。誰しも、自分にとって都合の悪いものは排除したい。見たくないものは見ないものだ。
 一方、(あ)が幾分気持ち悪く感じたのは、アメリカ人に同じ質問をしてきたところ、皆、同じ回答をすることだ。口をそろえて「戦争を終わらせるために原爆投下は必要だった」と言う。おそらく、そのような教育を受けてきたのだと思う。我々は、あえて自分が受けた教育内容が正しいかどうかを考えない。日本による侵略戦争の事実さえ、日本の教科書にはなかなか記載されなかった。だから中国、韓国や北朝鮮の人達に、自分達が知らない”事実”を突きつけられると、驚き反発する。
 教育内容は国の検閲を受けているから、国にとって都合の良い事実しか与えられていない。原爆投下が「戦争を終わらせるために必要だった」としか教えられていないから、何ら疑問も持たず、未だに核兵器保有劣化ウラン弾を使用できる。しかし、「私たちは、そう教育されたから」で済む問題かどうか?
 それは、今の日本人にとっての原子力発電も同じだと思う。
 原子力発電は有効で安全」と教えられてきた。それを疑うことなく受け入れてきたのだ。国や電力会社の『検閲』――もしかしたら『操作』?――を受けた情報だけを受け取ってきた。そのことに気がついて、「自分達はダマされてきた」と訴える歌手もいた。被害者意識を持っても、おかしくはない。ただ、今となっては「私たちは、そう教えられてきたから」では済まされない。
 国や電力会社、学界までが結託し、敢えて出さなかった事実がある。それらを一人一人がしっかり理解した上で選択しなければ、核兵器保有劣化ウラン弾を使用することと同じではないだろうか?