フリースタイルですから?

 フリースタイルのインターナショナルを見た。今回は南アフリカやオーストラリアからも参加されていた模様。「つぶやいた〜」も活況(笑)。世界が小さくなるのを感じるなぁ。
 インターナショナルが楽しみなのは、もちろん超高等レベルのダンスが見られること。
 このレベルになると、犬の動き自体にはあまり差はないと思う。体格の大小はあっても、犬の体の構造は同じなのだから。ただ同じ動きをさせるにしても、複雑な構成の中に組み入れたり、指示の出し方などを工夫したりして難易度を高めている。「あぁ、こういう見せ方かぁ」と気付かされることも多い。
 今回のフリースタイルは、国内もインターナショナルも道具を使ったものが大多数。アレ?小道具の使い方が、制限されたんじゃなかったっけ?
 小道具どころか「大道具じゃないの?」というものまであった。MCの説明では「フリースタイルにはエンターテイメント性も審査の対象」ということだから、そういう意味で使われたのかも。
 踊る側としては、小型犬はもとより、中・大型犬でも、あんな広いアリーナだから規定のスペース使用率をクリアするのは大変だ。スケールアップの手法として大道具を導入して、使用率を上げようという作戦かもしれない。
 大道具使用のせいかもしれないけれど、「つぶやいた〜」には
 あれはダンスというより演技じゃないか?
 というコメントが寄せられていた。
 道具と衣装を使うと、確かに見る側にはシーン設定が分かりやすい。エンターテイメント性も高められるだろう。また、犬の動きを道具に絡ませることで、道具の導入がフリースタイル自体に必要なのだと審判を説得できるだろう。
だけど、これを見た人達が、フリースタイルには大道具、小道具を使って当然、使うのが普通と思うんじゃないかしら?cruftsのステージは、最高レベルのフリースタイルを見せるだけでなく、模範的なフリースタイルを見せる場じゃないかと思うんだけど。

 でも模範的なフリースタイルって何なんだろ?
 これって、お笑いの世界でも言えることだよなぁ。「また、お笑いを引き合いに出して」と笑われるだろうけどさ。
 つまり、漫才とコントの境界線に似ているかも。コントでは大道具、小道具を使い放題だけど、漫才では小道具を使うことはあっても大道具はない。ハードコアの漫才では小道具さえない。やすし師匠の小道具はメガネのみだった(爆)。シーンの設定や2人の人物像は、すべて言葉で表現され、見る側は説明を元に想像力を働かせてシーンを理解する。まぁ、この境界線も今日崩れてきて、境界線を引く意味すら不明になってはいるけど。
 もっと言えば、落語はどうだ?大道具はない。音響は太鼓や三味線があるし、劇場によっては背景やライトを使うところはあるけど。演じる方は、一人で何役もこなし、小道具といえば手ぬぐいと扇子だけ。基本的に落語家の話術と見る側の想像力で成り立つ芸だ。漫才とコントの境界線は崩れてきてはいるけれど、落語だけは基本的なスタイルが変わっていない。
 ・・・何が言いたかったんだっけ(爆)?
 あ、そうそう。落語と漫才とコントが一緒になっても良いのかってことかえって分かりにくい喩えかもしれないですね、スイマセン。
 犬に何かを教え込んで人前で披露させるのは大変なこと。ましてや道具を使うのであれば、犬は特定の動きだけでなく道具を認識しなければならないから、難易度が上がる。だから、ダンスであろうが演技であろうが、犬と人間の動きが音楽に合っていれば良いというのであれば、それも良かろうと思う。これが進化なのだと言うなら、それも良かろう。
 ただ、cruftsはフリースタイルを知らない人達も、ステージ上の精鋭を目標にしている人達も見ている。世界中の注目を集めるステージでは、見る側を困惑させない、誤解させない「これが今のフリースタイルだ」というものを見せて欲しいと思うし、「こういう使い方の小道具は良いけど、ああいう使い方はダメ」とか競技者を悩ませるような制限は止めて欲しい。たとえ、フリースタイル(自由形)と言っても、スポーツとして一定のルールを採用している以上、誤解や困惑を招くものはNGだ。
 ・・・そう思うのは、私だけかな?

↓模範中の模範であるメアリー・レイさんのデモ