フェイク

 逃走の夜以来(あ)は時間をかけてルーシーを仰向けに抱っこして、反抗的な態度を矯正し続けている。抱き直す度に歯を剥かれ唸られ、その度に矯正しなければならず、足を拭くだけの作業のために30分以上もかかることもある。元来、力づくで指示に従わせるなんて考えられない人間なのだ。おかげで、心身ともに疲れが貯まってきている。
 大体、ウチのルーシーは「ズル賢い」タイプである。たとえ「ウ〜」と言わなくなったとしても、それでルーシーが従順になったとは言えないし、家の外で飼い主の指示に従える訳でもないだろう。そうでなければ、こんな努力も意味はないではないか!ルーシーの矯正を続ける上で、一番の問題は、ともすれば折れそうになる自分の信念を貫き通すことかもしれない。
 おやつを見せると、ルーシーは自分からお腹を見せる。何回抱き直しても平気な顔をしているし、足先や尻尾を触っても知らんぷり。昔(あ)は、犬には元来人間に従いたいという気持ちがあると聞いた。遺伝子の中に組み込まれているのだという。(記憶が定かではないが、あれはムツゴロウさんではなかったか?)ルーシーにその気持ちがあるのならと、おやつを使って服従姿勢を取ることを教えた。そのせいか、ルーシーは食べ物がある時は、こちらが指示を出さなくてもお腹を見せるようになった。
 ところがルーシーの頭の中では−−−豚まんのCMではないけれど−−−「おやつのある時」と「ない時」が明確に区別されてしまった。ご褒美がある時、ルーシーにとって「お腹を見せる」ことは服従姿勢ではなく、単にお座りや伏せの延長でしかない。だから何の抵抗もなくお腹を見せる。食欲が自尊心や恐怖を上回り、頭の中は目の前のイチゴでいっぱいなのだ。
 一方、ご褒美のない矯正では、受けたストレスを発散させることができない。押さえ込むしか方法がないのだ。今までは、歯を剥き唸って発散させていたけれど、それすらも禁じられてしまった。
 (あ)がマズルを強く掴むと(マズルを握っても、ルーシーはあまり痛みを感じないようだ)、ルーシーの目にじわっと涙が浮かんできた。思わず、手を緩めそうになるが、モー姉の言葉を思い出す。「だまされないで下さいね〜。犬は平気でウソをつきますから」
 ・・・でも、本当に痛いんじゃない?心配になって、(あ)がマズルから手を放すと、ルーシーはそっくり返って「ウ〜!」と今まで以上に大きな声を上げた。
 クソー!!!やっぱり演技かよ!!!
 次の瞬間、自分でも信じられない反撃に出た。前の両足を握るのに両手が塞がっていたため、ルーシーの後頭部めがけて頭突きをしたのである。専門用語で言う「ショック」の代わりである。
 ルーシーとの闘いは、いつまで続くんだろう?自分の人間性が悪くなりそうで怖い。