永遠の子犬

 マイケル・クライトンのNEXTを読んだ。本編は遺伝子操作の話で、(あ)のような「お気楽主婦」がこんな世界に触れることは、まず考えられない。唯一触れることがあるとすれば、スーパーの豆腐売り場。「遺伝子操作をしていません」という表示を見るくらい。
 クローニングをはじめとする遺伝子操作は、倫理的かどうかに関わらず、私たちが受け入れざるを得ない宿命だと思う。食糧危機が危惧され、環境破壊に歯止めをかけるどころか、ますます進行を続ける世界では、人口全体を支える上で、遺伝子操作に頼らざるを得ない。物議は避けられないが、結局は、なし崩しに受け入れることになるんじゃないだろうかと思うのだ。
 ただし人間の生命や種の存続に直接関係のない分野で、遺伝子操作が奨励されるのは、いかがなものかと思う。
 たとえば「もし永遠に成犬にならない犬が遺伝子操作でつくれるとしたら」?
 誰しも自分の犬を見て「このまま大きくならなかったら良いのに」と思うことがあるだろう。ルーシーも毎朝見るたびに大きくなっていたから、(あ)は「このペースでずんずん大きくなっていったら、どうしよう」と思った時期もあった。成犬になったルーシーは、ボーダーとしてはチビスケで、(あ)の心配は全く杞憂に過ぎなかったけれど。
 もしも、永遠の子犬を現実に造るとすれば、科学者は「犬には、交配により、これまでも間接的な遺伝子操作が行われてきた。なのに、どうして遺伝子を直接操作することがいけないのか?」という理屈を出してくるだろう。確かにボーダーコリーは、間接的な遺伝子操作により造られてきたと言っても過言ではない。事実、人間が設定した条件に合わない子犬たちは、容赦なく処分されてきた。要するに、犬自身の健康よりも牧羊犬として働けるかどうかで生死が決定されていた。だから股関節形成不全など遺伝疾患が多い。現代でも、真っ白のボーダーコリーは敬遠されていると聞く。
 酪農業者など特定の人々にとっては、ボーダーコリーは大切な働き手で、彼らの存続の鍵を握っている。だから百万歩譲って、牧羊犬としての働きで、その犬の生死を決められてもしかたがないと思えたとしても、永遠の子犬を造ることは(あ)には受け入れ難い。全く必要と思えないからだ。遺伝子操作で干ばつに強い穀物を作る。砂漠化が進むアフリカでは、深刻な食糧不足が懸念されている。昨今、化石燃料に替わるバイオ燃料がもてはやされ、トウモロコシなどは燃料として先進国が購入する傾向にある。トウモロコシの値段が高騰して、アフリカの貧しい人々には、ますます手が届かなくなってしまう。そう考えると、遺伝子操作自体が良いか悪いかは別として、人間の生命に関わる選択だから、しかたがないと思う。一方、永遠の子犬は、人間のエゴを満たすだけで、お腹を満たしてはくれないし、それで誰かが命をながらえることはできないのだ。
 実際、先進諸国では、このように不必要な遺伝子操作に関するマーケットが存在し、巨額の資金が投入されることが多い。例えば「永遠の子犬を欲しがる人は多いだろうから、成功すれば大もうけができる」ともくろむ人は多い。そうすると、資金は本当に必要な分野ではなく、どうでも良い遺伝子操作にばかり割り当てられることになる。遺伝子操作自体の重要性や必然性が見失われてしまう。
 そう言いながら、心の片隅で「永遠の子犬は年をとらないで、ずっと元気でいてくれるのかしら?」とも思う。もしも永遠の子犬が老年性の疾患にかからないとすれば、ちょっと心は揺れ動く。そのたびに「いやいや、遺伝子操作した生物は短命なことが多いのだから」と妙な理屈で気持ちを抑えようとする自分に気づく。