アカデミー賞

 アカデミー賞ノミネートの段階で元夫婦が監督賞を競うことで注目されていた。MCのジョークが「奥さんの方は、ダンナにタイマー付きのフルーツバスケットを送ったらしいよ。」「ダンナさんは、お返しにトヨタをプレゼントしたらしい」だって。ここでもトヨタがいじられてた(笑)。
 ドキュメンタリー部門受賞作品は、日本で物議を醸しそうだ。日本のある地域で行われているイルカ漁を虐殺行為として批判し、学校給食に使用されているイルカ肉には水銀が含まれているというのだ。昔、クジラ漁で栄えた地元では、この映画の撮影段階から反発が強かったようだ。映画が完成してからも、配給会社に対して上映を控えるようにと働きかけているとか。
 プレビューしか見ていないが、血に染まった入り江の映像は、それだけでショッキングだ。映像で植え付けられる虐殺のイメージは、言葉を尽くして説明したとしても払拭できないだろう。イルカ漁やイルカを食べることが食文化だと主張しても、文化という抽象概念を隠れ蓑にしていると言われるだけだろうし。その上、ドキュメンタリー部門で受賞したとなれば、この映画の内容が−本当のところは別として−全くの真実だと人々の目には映る。
 以前、職場のフランス人とクジラのことで議論したことを思い出した。彼の名誉のために言っておくが、彼は親日家であり、大変な勉強家であり、もっと日本のことを知りたいと考えている。その彼が「どうして日本人はクジラを食べるのか?」と訊いてきた。
 (あ)が小学生だった頃、クジラを給食でよく食べた。当時は、牛肉よりもクジラ肉の方が安いからと説明を受けた記憶がある。その後クジラが保護種になり、口にすることがなくなってしまった。「じゃあ、安かったら買うのか?」と訊かれたので「自分で料理できるんだったら買うね」と答えたら、大変ショックを受けた様子だった。
 こちらが、逆に「なんでクジラを食べることに、そんなに反発するの?」と訊くと「だって、クジラは知能の高さでは人間に近い動物なのに」という。先日読んだ本もそうだった。本では、南米の密林探検で、現地の人々がサルを殺して食べようとすると、西洋人が待ったをかけていた。西洋人は、人間に近い動物を食べることを嫌悪するらしい。
 「知能?知能の問題なの?知能が低かったら食べても良いけど、知能が高かったら食べたらダメなの?」「だから、フランスではカタツムリやハトは良くて、クジラがダメなの?でもハトは、キリスト教では平和の象徴じゃないの?宗教上は平和の象徴でも、知能が低かったら食べても良いの?」と訊くと、相手が黙ってしまった。別に相手を批判したり、言い負かしたりするつもりはないんだけど、なんだか理屈が合わない気がして。
 文革時代の中国では、ペットという概念がなかったため、食糧難に苦しむ人達が犬や猫を食べたという。別の意味で人間に近い動物が犠牲になった。ペットを飼う者として心は痛むけれど、それを糾弾する気にはなれない。生きていくためには、しかたがなかったのだろうから。
 そうなのだ。人間が生きていくためには、動物だろうが植物だろうが、その生命を奪うことになる。単に殺すだけなら虐殺と言われてもしかたがないが、それを余すところなく利用して自分のエネルギーや生命に変えることは、原罪であっても虐殺とは言えないのではないか?「他に蛋白源があるのに、なぜ敢えて絶滅危惧種のクジラを食べるのか?」と言うのなら、甘んじて批判を受けざるを得ないだろうけど。乱獲だけは気を付けないといけない。生態系のバランスを狂わせることは避けなければならないと思う。 
 なお、イルカ肉に含まれるという水銀の問題は、虐殺行為とは別次元の問題だと思う。本当のところを確認して早急に対処して欲しいものだ。