選択と受容のプロセス

 昨日は祭日だったので、夕方の公園は人がいっぱい。しかたがないので歩きだけの散歩に変更。ジョギング・ロードを逆回り。途中で知り合いの飼い主さんに出会う。見れば、いつも側にいるワンコがいない。訊けば2日前に亡くなったのだという。
 1ヶ月ほど前に会ったときは元気だったのに。暑い暑い夏が終わって「お互い頑張ったね。これからは少し楽になるよ」と声をかけたのに。
 4週間ほど前から喉の辺りが腫れてきた。本犬は普段と変わらず元気な様子だったという。それでも気になって獣医さんに診てもらったところ、そけい部にも腫れが見つかり、リンパ種と診断を受けた。さらに詳しい検査を受けて、腫瘍が悪性だと判明。そのまま放置しておけば余命は1ヶ月と宣告された。それでも「この種の癌には抗ガン剤が効くから」と言われ、抗ガン剤治療を始めた。かなり副作用は厳しく、嘔吐が止まらなかった。それでも腫れは引いてきた。効果があったのだと喜んでいたところが、抗ガン剤治療を始めて8日目に亡くなったそうだ。
 後から分かったことだが、リンパの癌とは別に脳内に腫瘍ができていた。残念ながら、こちらには投与された抗ガン剤は効かない。「副作用で体力が落ちたところに、脳の腫瘍が命を縮めてしまったのかもしれない」と、飼い主さんは唇を噛みしめた。
 小型犬で12〜15歳という年齢。中型犬、大型犬で10〜13歳という年齢。個々のワンちゃんによって多少の違いはあるだろうが、一つの山のような気がする。そして飼い主さんにとっても――。
 この時期に犬が見つかった場合、飼い主はかなり迷う。ワンちゃんの体力や、見込まれる治療の効果、治療が上手くいった場合に、あと、どれだけ元気で生きられるのか。金銭的な負担。「放置すれば余命1ヶ月」と言われれば、飼い主にも残された時間は、あまりにも少ない。果たして、勧められた治療が自分の犬に効果があるのかどうかは、試してみないと分からない。場合によっては、副作用は厳しく特別なケアが必要になることは分かっている。迷いながらも、わずかな時間で決断しなければならない。残された時間が最長でも1ヶ月だと考えると、最悪の結果を想定して心の準備をする時間もない。「ともかく手を打たないと」と抗ガン剤治療を始めた。
 治療開始後は、毎日ケアに追われ時間の感覚が分からなくなったと言う。亡くなって泣きながら家を片付ける最中にメモを見つけた。それを見て「たった8日しか経っていなかった」ことが分かったそうだ。
 前日までは良かった。魂はないと分かっていても体は側にあったから。それでも火葬して体がなくなったら家の中にいるのが辛い。外へ出ても、そこここに、まだワンちゃんの姿が残っている気がする。夕方のこの時間は、いつもは散歩していた。この時間、家人が帰宅するまでの時間が一番辛いのだという。知り合いらしい飼い主さんが通る度に声をかけて「○○ちゃんが亡くなったんです」と話していた。彼女自身、まだワンちゃんの死を受け容れ難いのだろう。
 ある飼い主さんが話を聞いて「早よ次飼いや」と声をかけた。愛犬を亡くされたばかりの飼い主さんに向かって、まだ死を受け容れられない飼い主さんに向かって、この段階で言うことだろうかと、(あ)は内心驚いた。しかし、よくよく話をきけば、ご自身も愛犬の死を経験されたそうだ。「ホンマ、あっちゅう間に死んでしもうてな。やけど死んだら、その途端に家の中が真っ黒けになってしもうた。こりゃイカンと思って、慌ててコイツを飼うたんや」これを聞いた飼い主さんは「病気が判明した頃は2匹目を飼っておけば良かったと思ったけど、治療を始めたら2匹目じゃダメだ、この子に生きて欲しいと思ったんです。」その気持ちはまだ続いていて、今は考えられないそうだ。
 ペットの老いを受け容れること。
 病気である事実を受け容れること。
 治療などを選択すること。
 死を受け容れること。
 相手が人間でも難しいプロセスだ。だけど、なぜペットの場合、このプロセスに許される時間がこんなにも少ないのだろうと思う。それとは対照的に、プロセスの後の時間はあまりにも辛く長い。神様が「ペットを飼う人間は、そのことを理解した上で飼え」と言っているのだろうか?もしそうなら、神様はかなり意地悪な気がする。